2010年04月14日
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そもそも松原とは「どこ」を示していたのか?

Written By: 川俣 晶連絡先

 「経堂経由のバス路線は吉祥寺まで行っていた」の続きです。

 「て」さんより、「松原」は明大前の旧称ではないかという指摘を頂きました。

 そのあとで、Amazon(実際は別の業者)に発注していた角筒が届いたので、以前コピーをもらってきた地図を収納しようと思いました。

 ところが、いざ久々に開いてみると。

 「1/20000地形図 世田谷 明治42年測量大正2年」にしっかり「松原」も「松原宿」も載っています。しかし、市街地の場所が分かり、「松原宿」の大まかな位置も分かりました。

 まず「松原」は甲州街道あたりから下のかなり広大な地域を示しているように思われます。

 次に、「松原宿」はその中心からかなり離れ、北沢川と烏山川の間にある感じです。ただし、南側よりも北側が栄えている感じです。滝坂道はやや南側を通っている感じです。

 ということは以下のようなことだと思います。

  • 松原は割と広い範囲を包含する地域名であり、おそらく甲州街道付近から北沢川流域までを含んでいる
  • 烏山川から南は世田谷である
  • 松原宿の位置は、どちらかといえば松原寄りである
  • おそらく、松原宿は松原の南端に近い場所にあり、京王線松原駅は北端に近い場所にある

 ということで、この話は、これだけでは「分からない」ということが結論になりそう。かなり広い地域のどこを示したのか良く分かりませんし、おそらくまだ松原宿が存在している時期であり、そこに鉄道を……という構想もあり得た時期だと思います。

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